男体山の山頂にある二荒山神社奥宮と、日光山内にある二荒山神社本社の中間にあるので、中宮祠と呼ばれています。
祭神は二荒山神社と同じ、大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命の3神です。本殿右側には山頂奥宮への登拝門があり、ここから男体山に登ることができます。
本宮神社は日光二荒山神社の別宮で、神橋近く日光橋正面の山中に鎮座し、御祭神は大国主命の御子神・味耜高彦根命を祀ります。
本社(新宮)・滝尾神社と共に古く日光三社大権現とたたえられた御社です。
本殿の背面には扉があり、この扉を開き太郎山(毘沙門天)にみたてた外山を奉拝した霊峯崇拝の名残を今にとどめています。
四本龍寺は現在は存在しない寺であり、大谷川を渡った勝道上人が東の空に紫雲が立ち昇るのを見て、この地に草庵を建てました。この時が日光開山(西暦766年)とされ、この草庵が『紫雲立寺』後の四本龍寺です。
その後西暦807年に下野国司・橘利遠によって観音堂が建立され、本尊の千手観世音が安置されました。
三重塔は西暦1241に建てられ、一度焼けて失われましたが西暦1713年再び建てられました。
瀧尾神社は本宮神社と共に二荒山神社の別宮で、本宮神社から稲荷川沿いに北へ向かうとひっそりとたたずんでいます。
母神・田心姫命を奉祀した御社で、女体中宮とたたえます。境内には滝尾稲荷をはじめ、子宝を授かるという霊石「子種石」・霊泉「酒の泉」・「縁結びの笹」があります。
稲荷町にある虚空蔵尊は県指定の重要文化財で、日光の東町六ヵ町の鎮守として祀られています。極彩色の社殿には随所に精巧な彫刻が施され、見ごたえのある建物です。
境内にあるしだれ桜は樹齢350年と言われ、日光の桜の名所になっています。
男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝で、晃海僧正によって造立された不動明王の石像の真言(咒文)の最後の句から「かんまん」の名がついたといわれています。
駐車場から慈雲寺を抜けて歩いて行くと、数えるたびに数が異なるといういわれから「化地蔵」とよばれる約70体の地蔵群があります。これは天海の門弟が彫ったもので、当時は100体ほどあったと言われています。
化地蔵から少し上流に歩くと護摩壇(ごまだん)があり、その対岸の絶壁には弘法大師が筆を投げて彫りつけたという「かんまん」の梵字が刻まれており、「弘法大師の投筆」と呼ばれています。しかし実際のところはこの地を開いた晃海が山順僧正の書いた梵字を岩に刻ませたもののようです。
憾満ガ淵からひっそりと延びる憾満の路を進むと現れる大日橋は、2000年10月に開通した新しい橋で、周囲は綺麗に整備された公園になっています。
橋を渡り橋桁におりていくと大日堂跡。大日堂は明治35年9月の大洪水で流失しましたが、かつては東北御巡幸の明治天皇も立ち寄られたほどの景観を誇る美しい庭園でした。現在は20体ほどの石仏が静かに並んでいるのみとなっています。
ゆっくりと散策されたい方にオススメです。
寂光ノ滝へ向かう山道の石鳥居をくぐり石段を登りつめた高台にあります。もとは「寂光寺」又は「寂光権現」といいましたが、明治の神仏分離で「若子神社」と改名されました。祭神は下照姫命。現在の社殿は、1887年に再建されたものです。
創建年代不詳。昔は、「星の宮」と称し虚空蔵菩薩を祀っていたと言われています。
1869年の神仏分離令により「磐裂神社」と改称し、磐裂神・根裂神を祀っています。
本殿の鞘堂が大谷石の石蔵で出来ている珍しい造りです。
花石神社は日光植物園の北側、国道120号線沿いに花石神社はあります。
鳥居をくぐると日光市指定文化財である大杉が聳えており、その奥に小さいながらも朱塗りが美しい社殿があります。
徳川時代までは「十八王子」といい、明治2年に祭神を少名彦名命として社号を花石神社と改めました。花石町の氏神です。
正月三が日後の日曜日に五社祭があります。(磐裂神社、青龍神社、八幡神社、花石神社、久次良神社)